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長岡御廟と真国寺

春に雪の立山連峰、脚下に日本海を一望できる標高八十メートルの高台に曹洞宗、長岡山御廟真国寺があります。延宝三年(1675年)富山藩主前田公の廟所”長岡御廟”守り役として建立されました。

長岡御廟が出来たのは今から約三百年前の延宝二年(1674)。反魂丹(はんごんたん)で有名な越中売薬の始祖、富山藩二代藩主前田正甫(まさとし)が父の初代藩主利次の霊をここに弔ったのが始まりだった。正甫の墓所選定には次のような理由があった。
当時から35年さかのぼった寛永16年(1639)、加賀三代藩主前田利常は、47歳の若さで長子光高に封を譲り、あわせて百二十万石の領地のうち、婦 負郡一円と富山付近を中心にした十万石を第二子の利次に、大聖寺(加賀市)の七万石を三子利治に分封した。

大名の二、三男坊は部屋住(へやずみ)と言われ、ふつうなら世継ぎのいない旗本か、高禄の家臣の家に養子にもらわれるのがせいぜいなのに、おもいもかけ ず一国一城の主に-。利次、利治の得意は想像に余りある。とくに小さいときから兵学を学んだ23歳の利次には、以前からひとつの大きな夢があった。
その夢とは、呉羽山の一角、百塚山に居城を構えることであった。東南には、立山連山、飛騨の山なみがびょうぶをめぐらし、北は富山湾を隔てて能登半島が 見渡せ、眼下には、神通川磯部堤の桜、富山の家並みが一望できる。城地として最適の場所、と利次は早くから目をつけていた。

翌17年秋、江戸の藩邸を出発して越中入りした利次は、かつて、神保長住、佐々成政の居城で、前田藩二代利長も短期間使ったことのある安住城(富山城) を仮住まいとし、百塚城構築計画を練った。早々と、徳川幕府の許可も得たのだが、残念ながら発足したばかりの藩財政に新城をつくるだけの余裕が無かった。 はじめ十万両(米価から換算して50億円ほどになろうか)を予定していたが、山地を切り開くなど難工事がいくつもあって、とても当初予定ではまかなえそう にない。大きな領地をもらったばかりなのに、それ以上、本家に建築資金まで無心するのは気がひけた。寛文元年(1661)、利次は富山城を大修繕しただけ で、結局、百塚城計画は断念した。

利次は参勤交代で江戸出府の延宝二年(1674)7月7日、58歳で急逝(きゅうせい)、その柩(ひつぎ)が江戸屋敷から富山に送られてきたのは同月 20日であった。正甫の胸には、百塚城に夢をはせた在りし日の父の姿が去来した。念願を果たさぬまま他界した利次の胸中を思い、正甫はためらうことなく、 百塚山に隣接した長岡(富山市八ヶ山)に父のなきがらを葬った。そして翌3年、廟所の入り口に、真国寺を建立、寺領を与え、永代にわたって廟を守らせたの である。

富山藩はその後、明治維新まで十三代二百二十一年間にわたって続いたが、廟所には初代利次公の墓を囲むようにして、正甫、利興、利隆、利幸、利與、利 久、利謙、利幹、利保、利友、利聲、の十二人の藩主、それに子供や側室方ら一族の墓がつぎつぎつくられた。藩主の埋葬のつど、家老をはじめ藩の重役たち が、墓のまわりに灯ろうを奉納した。その数、実に五百三十七墓。十一代の利友への奉納が最も多く八十八墓。
藩政時代、毎年、うら盆の七月七日から五夜にわたり、この催しのために、専従の油肝煎(きもいり)が二人置かれていたほどで、夜っぴて、城下を照らし出さんばかりの“迎え火”は、実に見事であったという。

そして今、うっそうとした廟所の森は、三万五千平方メートルの広い公園墓地に生まれ変わった。戦後の昭和三十五年、富山市有志によって長岡御廟保存会が つくられ、前田家の子孫から、土地を譲り受けるなどして、一帯を公園墓地として整備し、市民に開放した。御廟の西側には、四千人以上の霊を弔う長岡共同墓 地(一般に“御廟墓地”と呼ばれている)、それに旧陸軍墓地、市民墓地など合わせて一万以上の墓があり、春秋の彼岸、お盆には参詣の人波が続く。

合掌